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あしたへ向かって

トレンド、医療、政治、趣味について書いていきます

COVID-19に罹患した医師の証言

40歳代の医師で、現在ニューヨーク市内の病院に勤務していらっしゃる医師の方から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する経験を日本の医療関係者のかたに発信してほしいとの依頼をいただきました。

 我々はまだ大惨事の最中におり、肉体的にも精神的にも本当に苦しい時間を過ごしております。つらい記憶を呼び起こすことは本来、避けたい行為ですが、これから日本で起こり得る惨事に対する備えの足しになるかも、と思い、私の経験を投稿させていただきます。

NYの感染者10万4410人、死者6182人

 ニューヨークでは3月1日に、州内で最初のCOVID-19感染者が確認されました。3月4日にはWestchester郡(ニューヨーク州ベッドタウン)で5人の感染が確認され、ニューヨーク州の最初のクラスターと言われています。

 3月13日、市内の感染者は137人になりました。参考までに、ニューヨーク市はだいたい大阪府と同程度の人口です。人口密度は大阪府のちょうど2倍になります。以下は、米国のこれまでの感染者数の推移です(表1図1)。

表1 ニューヨーク市の推移
・3月15日、市内感染者269人
・3月20日、感染者5683人、出勤停止・自宅待機命令が発表され、22日に発効
・3月28日、感染者2万9158人
・4月1日、感染者4万5707人
・4月6日、感染者6万8776人
・4月7日、1日の死者は806人と最悪の数字を記録
・4月8日、感染者8万0204人、1日の新規入院患者が初めて減少
・4月10日、感染者9万4409人
・4月12日、感染者10万4410人、死者6182人

図1 ニューヨーク市のCOVID-19感染者の推移

 1月から2月ごろに起こっていた中国や日本のクルーズ船でのCOVID-19感染には、正直、米国人はほぼ無関心でした。2月末、西海岸で少し感染者が出現するようになり、まさか北米に? といった感じでした。3月1日にニューヨーク市(州)最初の患者が出現し、3月5日あたりから、私の研究室でも真剣にコロナ対策を意識する意見が出始めました。しかし、感染予防を強く意識する人と、一方でコロナなんてBad Flu(インフルエンザに毛が生えたもの)だから気にすることないという人たちで意見が分かれていた時期です。

 3月8日ごろからは、8人以上の集会は避ける方針になりました。3月10日くらいから、不要不急の外出を控える風潮になりました。当時、私の勤務する病院にはまだ感染者が2人しか入院しておりませんでした。そのうち一人はやや重症でECMOに乗っていると聞き、大変驚いたのを覚えております。肺炎でECMOに乗るとは、ただごとではないなと、まだ見たことのないCOVID-19に対する警戒心が強まりました。その頃の病院では通常通り予定手術も外来も行われていたのが、今では遠い過去の記憶となってしまいました。

少し倦怠感を自覚、風邪の引き初めのよう

 3月17日(火)の夕方から、自分の肘の外傷に対するMRIの検査予約がありました。しかし、病院の放射線部門に近寄ることで感染してはと危惧し、延期を考えていたところ、病院から電話があり、緊急以外の検査は延期する方針なので改めて予約を取り直すように言われました(通常、自己都合で当日予約をキャンセルすると、キャンセル費用を請求されるこの国では珍しい対応です)。夕方から少し倦怠感を自覚し、風邪の引き初めのような感じでした。念のため家族と距離を置くため、自室に籠ることにしました。

 3月18日(水)。早朝1時から緊急の呼び出しがあり出勤し、朝の7時頃帰宅。この時から後頭部の頭痛と倦怠感がありました。自宅で仮眠をとり、午後3時に体温を測定したところ、36.7℃。普段の平熱は36℃未満なので、少し高めであることが気になりました。午後8時、36.6℃。変わらず平熱で安心し就寝。

 3月19日(木)。後頭部の頭痛が継続する。激しい頭痛ではありません。午前10時、36.9℃。自宅で様子を見ていましたが、午後3時に37.0℃となり、風邪を引いたか、あるいはCOVID-19 の可能性も念頭に引き続き自己隔離を継続。

 同日午後7時は37.7℃、午後10時に38℃となり、明らかな発熱を自覚。上気道炎症状は全くなく、倦怠感と頭痛のみ。上気道炎症状はないので、COVID-19 ではないだろうと自分に言い聞かせる。食欲は普通にあり、補水に気を付け就寝。

 3月20日(金)。午前7時37.6℃。午前9時には36.6℃となった。解熱剤は服用していない。午後5時、36.6℃。午後10時36.9℃。自然に軽快し、風邪であったのであろうと安心した。しかし、相変わらず後頭部の頭痛と倦怠感は継続している。

 3月21日(土)。再び発熱する。午前8時半、37.4℃。頭痛と倦怠感は持続しているが上気道炎症状は皆無。受診した方が良いと思ったが、この程度の症状ではER(Emergency Room)では相手にしてもらえないことは承知していたので、病院の職員健康管理センターに電話をしたが、結局つながらなかった(オペレーターが空き次第案内しますという録音メッセージを2時間聴き続けたが断念)。午後3時37.4℃、午後5時38℃、午後11時38℃。

 3月22日(日)。同僚から安否確認の連絡をもらい、別の同僚が新型コロナウイルス陽性だったので、熱があるなら検査を受けた方が良いと言われた。職員健康管理センターに再度電話をかけ、4時間待ったがやはりつながらないため、あきらめてERを受診することにした。体温は朝から38℃。

 同日午後3時。ERを受診しようと受付で症状を説明すると、Cough and fever clinic(発熱外来)の受診を勧められた。棟内を5分ほど歩いて移動し、診察室で30分ほど待たされ、完全防護服を着用した感染症内科のfellow(日本の後期研修医に相当)による診察を受けた。バイタルを測定され、体温は38.8℃。症状・経過を説明すると、「コロナであることは明白で、PCR検査の必要はない」と言われた(検査を行う条件は上気道炎症状を伴う、数日続く39℃以上の発熱であり、検査を渋られることは分かっていた)。自分がこの病院で勤務しており、職場復帰のタイミングを考慮するため、また家族の安全の確認のために検査をしてほしいと強く要望し、なんとか検査をしてもらった。

 夜の9時以降に結果が出次第、電話をすると言われ帰宅することに。レントゲンや採血検査などはしてくれない。(米国では、検査は極力行わないのが常識となっている)。

 自宅まで徒歩で帰る途中(タクシーには乗るなと言われた)、解熱剤を求めて薬局に立ち寄ったが、ほとんど売り切れていた。イブプロフェンは肺障害を惹起するとの報告を読んでいたので、なんとかアセトアミノフェンタイレノールを手に入れたかったのだが睡眠導入剤ジフェンヒドラミン)との合剤しか手に入らず(これは就寝前に1回飲むタイプで、1日1回しか服用できない)。

陽性と告げられ、非常に落ち込む

 午後9時半、電話が鳴り、結果が陽性と告げられる。非常に落ち込んだ。家族の検査もして欲しいと頼んだが、家族は100%陽性だから検査する意味がない、と断られる。体温は38℃から下がらない。脈拍は常に90台、口渇が激しく舌の表面がザラザラになっている。味覚・嗅覚の低下に気付く。このころから、やや胸部正中、ちょうど心臓のあたりに軽度の痛みを伴う違和感が出現する。倦怠感がすごい。マラソンを走り終わったときのようだ。

 布団から出ると1~2分で震えが来るため、トイレへの往復以外は常に電気布団に入る。夜中に、頭の先から足に向かってゆっくり移動する、まるでScanされているような熱感がある。その後、体温が急激に上昇するという現象があり、サイトカインが大量に放出されているのかと想像し恐ろしくなる。アセトアミノフェンを服用すると、不愉快なほど大量に発汗し、1時間程度解熱する。その後、再び熱が上昇するのが分かり、全く病状が良くなっていないことを思い知らされる。重症感染症の患者さんが、発熱時のアセリオ投与を嫌がる理由がよく理解できた。

 3月23日(月)。朝38.6℃。自分より若い健康な人が重症化して挿管されたり、もっと不幸な転機に至るニュースが嫌でも目に入り、恐怖を感じる。食事は無理やりシリアルとプロテイン飲料にビタミン剤と、とにかく栄養摂取を心掛ける。

 クロロキンが有効かも、というニュースが気になって仕方がない。海外からの並行輸入ができそうで、ちょっと考えてしまう。

 ほとんど歩くことができないほど疲労している。トイレで自分の手背の静脈が、毛髪の様に細くなっていることに気付く。末梢ではとても血管確保のできる状態ではない。毎日2L近くスポーツドリンクを飲んでいるが、それでも極度の脱水になっていることに驚く。体重を計りたかったが、服を脱いで体重を測る気力も体力もなかった。

 午前10時、Cough and fever clinicの医師から電話診察。呼吸困難感がなければ、そのまま自宅で過ごすよう指示される。朝から晩まで常に38℃前半で推移。脈は90台から100近くを推移。一度も脈が90を切ることはなく、頭痛も変わらず。夜間、再び頭から足に向かって熱感が移動し、その後高熱が出る現象が2回もあり、どんどん悪化していることを自覚する。怖い。恐怖を紛らわすために本を読む。

 3月24日(火)午前7時。熱は37.5℃と若干下がって喜んだが、夕方からは38.4℃となり落胆する。朝10時の電話診察は昨日と全く同じ。酸素飽和度計を手に入れたほうが良いとの助言をいただき、同僚に持ってきてもらう(近所は売り切れており、かなり遠方まで探しに行ってくれた)。

 夕方、家族が37.4℃の発熱し、悲壮感に拍車がかかる。

 夜間から、臥位になると乾燥した咳が少し出ることに気付く

SaO2(動脈血酸素飽和度)は95%と悪くはない。

 

3 月25 日(水)。朝から37.8℃。高熱ではないが、咳が時々出るのが気になる。臥位になると咳嗽が出現し、SaO2が下がることに気が付く。低い時は89~90%まで下がっており、酸素化に問題があることに気が付く。呼気終末に捻髪音が聞こえることに気が付く。自分では胸膜炎と胸水を予想し、電話診察の際に胸痛・咳嗽・SaO2の低下を説明すると、ERを受診することを勧められた。ただしUber、Taxiなど公共交通機関は使わないように指導される。車は持っていないため、徒歩でERに向かう。幸い歩いて10分くらいであった)。

 ERはとにかく待たされるので、この消耗した状態で病院の外にまで溢れる行列に並ばされて耐えられるだろうかと不安だったが、意外とテレビで見るような病列にはなっていなかった。

 受付で自分はPCR陽性であることを告げると、待合室での感染拡大を防ぐためであろうか、優先的にERの中の半個室に収容された。午後1時過ぎだった。ERは咳をしている患者で溢れており、通路は収容できなくなった患者が乗ったストレッチャーで埋め尽くされている。

 2時間近く待ち、やっとレジデントが問診に来た。その後ERの常勤医師が診察に。レントゲンと採血、胸部のスクリーニングエコーがオーダーされる。午後5時ごろアセトアミノフェンを服用し、採血・ポータブルレントゲンを撮影。エコーでは胸水はなく、なぜ咳嗽が出るのか不思議に思った。その後、診察室が足りなくなり、私もストレッチャーのままERの通路に寝かされた。そのまま連絡がなく放置されていた。同僚に頼み、レントゲン・採血の結果を教えてもらい、肺炎であることを告げられ驚いた。

 午後10時、突然入院の部屋の準備待ちのため、別の場所に移動するとtransporterに言われ、入院するほど重症なのかと呆然とする(米国では相当重症でない限り入院はさせてもらえない)。入院を指示した医師の説明を聞きたい旨を伝えた。自分としては、発熱が始まった家族を置き去りにして入院するのはとても受け入れ難かった。

 入院を指示した医師が到着。「発症から7~10日から重症化する症例が多く、またその変化は急速に起こり、挿管・人工呼吸器・ECMO対応へと悪化することがしばしばあるため、今後悪化するのか改善するのか判断するために入院したほうが良い」と説明をされた。その説明内容は既に毎日ネットを見ていたので知ってはいたが、このまま入院し、二度と退院出来なくなる可能性があると思うと恐怖でしかなかった。しかし、自宅に帰ってから急性増悪しても救命できない可能性や、いざという時に満床で入院ができず、たらい回しにされる可能性を恐れ、入院することにした。家族に電話をした。家族は泣きながらも、入院して治してきて欲しいと言ってくれた。

 ERでさらに数時間待ち、日付が変わってから入院設備のある建物にストレッチャーで移送された。もう病床の70%は、COVID-19の患者で埋まっていると教えられた。ちなみにベッド数は千床程度の大病院である。恐ろしいことが起こっている。

 3月26日(木)。午前1時30分、病室に到着。2人部屋で、手前には酸素を吸入している30歳代の男性がいた。呼吸状態は私より悪そうであった。看護師さんから入院の書類の記入をするよう指示される。このあたりのプロセスは日本と似ている。夜食が欲しいかと聞かれ、朝から何も食べていなかったため大喜びでサンドイッチをいただいた。

 酸素投与も可能とは言われたが、酸素を投与されると、すなわち重症化であると認めることになるし、退院の機会が遠のくような気がして遠慮した。

 1.5Lの補液のルートを右肘に入れられ、これを10時間で投与すると言われた。 

 トイレは病室の中にあるが、輸液ポンプが付いているため、排尿には尿瓶を使用した。歩かなくても用がたせるのはなんと快適なことか。今思うと、家に持って帰ればよかったと後悔をしている。

 自分が入院した精神的ショックと、臥位になると咳が出ることでなかなか寝付けないまま朝を迎えた。

 朝9時、検温があり37.1℃。発症して10日目、初めて解熱傾向が見られた。午前10時ごろ、その日の病棟担当医師が来室。室内で数分足踏み動作をしてSaO2を観察したが、88 %は保てたため退院できるかもしれないと言われた。採血をもう一度行い、心筋炎を否定するためのBNPの測定、前日異常高値であった肝酵素と腎機能・CBCの再検査を行った。

 感染対策のため、その後その医師とは一度も顔を合わすことはなく、以降の会話は全て携帯電話となる。夕方検査結果で、肝機能異常の改善、腎機能も改善傾向にあり、呼吸症状も悪化はしていないので退院しても良いとの連絡があった。AST/ALTは151/168U/L、CRPは85.91mg/L(8.591mg/dL)、ビリルビンは正常だった。LDH 339U/L、 Procalcitonin 0.06 ng/mL。

 午後9時40分、退院となった。最終検温では37.1℃だった。

2時間ほど寝ても直ぐ咳嗽で目が覚める

 前日と比較して、随分体調が良くなっていた。頭痛も軽減した。入院の効果があったのかどうかは不明であるが、とにかく初めて改善傾向が見られて九死に一生を得たと思った。

 しかし退院したものの、その晩から咳嗽は悪化し、ほとんど睡眠がとれない。朝の5時くらいまで寝ることができず、なんとか2時間ほど寝ては直ぐに咳嗽で目が覚める。

 3月27日(金)。朝の体温は36.0℃。こんなに嬉しいことはなかった。咳嗽は肺炎が完治するまで数日は続くと医師に言われていたので、そういうものだと諦めた。熱がないのが救いであった。精神的にも体力的にも、熱がないと随分楽である。脈も80未満になってきた。夜はなんとか半臥位で寝ようと試みるが、普通のベッドではなかなか難しく、結局朝方まで寝られない。

 家族は38℃の熱発があり、今度はそちらが心配になる。

 3月28日(土)。朝は36.4℃。咳は徐々におさまってきた。家族の発熱は昨日の38℃がピークで今日は37.4℃まで下がった。しかも昼間は解熱しており、自分と比べて軽症であると思われ少し安心した。

 3月29日(日)、36.4℃。家族も解熱した。このまま時間と共に軽快することを切に願う。

 3月30日(月)。これ以降、発熱することはなかった。咳嗽は4月5日くらいに消失した。

 3日以上の無発熱・症状の消失・発症から2週間以上経過していること。この3つの条件をもって寛解とみなすので、私は寛解したと思われる。

体温の推移(平熱は36℃未満)

死が頭をよぎるほどの体験

 今思うと、入院した第9病日から第10病日が運命の分かれ道であったと思います。あそこから肺炎が悪化すると、酸素投与、挿管、人工呼吸・透析・ECMOという重症化コースに移行していたかもしれないと思うと、いまでも恐ろしくなります。あの時の恐怖は当面忘れることができません。

 死が頭をよぎるほどの体験をしました。退院後しばらくは、あの時の恐怖を思い出す度に涙が出ました。最近はやっと、冷静に当時の状況を思い起こすことができるようになりました。もともとマラソントライアスロンなど、日頃から運動は欠かさず行っており、非喫煙者でもあった自分ですが、それでもこれだけ大変な思いをしました。高齢の方、基礎疾患のある方はさらに大変でしょうし、また基礎疾患のない方でも安心はできないと言うことを強調させてください。

 日本の状況が深刻になりつつあるのは、日々の情報でニューヨークにも伝わっております。日本では感染症指定病院に患者さんが集約されているそうですが、感染症指定病院以外の病院も、できる準備を始めなければならないと思います。患者数の少ない都道府県の協力も不可欠になると思いますから、今の間に連携を始めなければ間に合いません。医療従事者の皆さんの、そして皆さんの御家族・同居者の安全と、日本の被害が最小限になることを祈っております。

(2020年4月12日、ニューヨーク州ニューヨーク市にて)

COVID-19 ニューヨーク仮設病院(写真提供:ピクスタ)

 

 

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